社会改革と女性 「インド・女性・解放」

こうしたなかにあって、女性の地位向上のための社会改革運動が起こったのはやっと19世紀初頭になってからであり、その指導者がラージャ・ラーム・モーハン・ローイであった。

彼は女性の逆境・犠牲を改良するため活発な運動を展開したが、なかでも寡婦の再婚を法的に認めさせることに努力を注いだ。

そしてついに1856年、その協力者のイーシュバルチャンドラ・ビディヤサーガルの尽力によって「寡婦再婚法」が制定されることになったが、これはインド女性の解放運動のなかで画期的な事件であったといわなければならない。

以後、女子教育のための機関が少しずつ設立され、各種の立法措置によって女性の経済的自立への道が開かれていった。

すなわち、婚姻年齢の引き上げ、寡婦殉死の禁止、カースト制下の女性隔離の排除などの施策がそれであった。

また20世紀初頭以降、マハートマー・ガンディーによって開始された民族独立運動は、女性を家庭から社会へと立ち向かわせる契機となり、国民会議派の政治・文化活動に加わった者のなかから、教育、医療、芸術や政界に活躍する多くの女性が輩出した。

しかし全体としてみれば、伝統的な因習を多く残すカースト社会では、女性の社会的進出に限界があり、また合同家族に基づく閉鎖的な生活環境は、女性の個人としての自立を心理的に抑制する働きをなしているのも否めない。

第二次世界大戦後、独立後の初代首相ネルーのもとで新しいインド憲法が制定された。

それによって、不可触民制の廃止とともに女性の権利擁護の施策が打ち出された。

しかし、それにもかかわらず最下層の女性に対する差別と抑圧、性暴力による被害は後を絶たなかった。それを象徴するのが、インド盗賊団の元女性首領であったプーラン・デビPhoolan Deviが、1996年に社会党の下院議員に選出された事件であった。

彼女は被差別カーストの極貧家庭に育った。

今日インドの人口は10億を数えるが、そのうち2億以上が彼女と同様の虐げられた低層カーストに属する。

1979年、彼女は村を襲ったダコイツに誘拐されレイプされた。のち、彼女自身が新たなダコイツの首領になり、かつての加害者集団を装って関係者を射殺した。

その後捕らえられ8年の刑に服したが、94年に司法取引によって出獄、さらに被抑圧民救済のスローガンを掲げて選挙に打って出たのであった。

出獄後、彼女はカースト制を容認するヒンドゥー教に絶望して仏教に改宗した。

インドにおける女性解放の運動がいかに困難な道であるかが、ここからもわかる。

しかし不幸にも、2001年7月25日、彼女はニュー・デリーの自宅前で射殺された。
update:2010年02月24日